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2012/01/01/Sun星に見守られて
都心の会社で仕事を終えて1時間弱の電車で千葉郊外へと帰る。駅員が1人だけの小さな駅を降りて、田圃の脇の細い道を歩くときには、冬の今頃は、空には月や星がきらめく時間になっている。私は星座の名前をよく知らないし、どの星がなんという名前なのかを見分けることはできない。しかし、黒々とした夜空に浮かぶ月や星を見ると、月や星に見守られているような心持ちになることがある。そんなときには、思わず手を星たちにむけて差し伸べてしまう。
月や星は人の運命を告げたり、神々の物語の印として、もっと身近に私たちに語らうものだった。科学の時代、月や星の神秘的な力は失われたのだろうか?
星の光が何万年もかかって到達しているという知識、そして、もしかしたら私が目にしている今この時には、何万年も前に光を発射したその星は、既に燃焼し尽くして存在していないかもしれないという想像。こうした今の時代の知識や想像をもってしても、夜空を眺める私の感動は薄れない。
光を発した星から見れば、何万光年離れた小さな水を湛えた青い星の上の、目に止まらないような小さな生命に過ぎない私。そんな私が、確かにこの光をキャッチしているということを、星に伝えたいという想いをもつ。
私の感動は、月や星そのものよりも、月や星について「知る」ということによって生まれているような気がする。私がもし、単に動物のように生きるだけの存在なら、天体に関する科学的な知識も無駄で意味がないことだろう。現実的な生活に必要な事柄について知ればそれで十分だろう。しかし、現に私は、決して到達できな地点や存在しないかもしれない場所について思いを巡らせている。
こうした思いを巡らせることは、私にとってどんな意味があるのだろうか? その意味とは、たんに私にとってだけのものなのだろうか? 「意味」とは、たんに私の内側だけの出来事なのだろうか?
思いを巡らせる・・・星や宇宙、永遠について思いを巡らせるということを通して、現実の宇宙旅行にも匹敵するような、冒険と秘密への旅ができるような気がする。ここには、そうした旅の航海誌のようなものを記録していけたらよいと思う。
2012/01/02/Monはじめに言葉があった
シュタイナーは、私たち人間が「宇宙創造の発端部分に属しているのではなく、その最後に属している」と述べ、「概念による宇宙認識を行おうとするなら、時間的に原初の存在からではなく、われわれに最も身近なもの、最も親しみのあるものから出発しなければならない」として、その出発点に思考を据えた。(※ p67)
私は、彼の出発点に関する示唆に感謝しつつ、この航海誌の出発点は「言葉」にしようと思う。
今、私が直前にしていたことは、自分が書いた文章を読み返していたことである。目に触れていたのは、ポメラという名前のテキスト入力専門の端末のモノクロの液晶ディスプレイであり、そこに浮かぶ24ドットのゴシック体のフォントである。そうした目に触れていたものを通じて、私が、読んでいたものは、日本語であり、日本語で書かれた言葉である。そして、その言葉を味わい、漢字変換を修正したり、接続詞を変えたり、句読点を打ち直したり、あるいは、間に別な言葉を挿入したりしている。
キーのタイピングはブラインドタッチができるので、頭に浮かんだ言葉は、その言葉の響きが頭の中に生じるよりも先に画面上にまず現れ、それを読むことで、言葉の響きを私は味わう。そう、言葉の響きも、私が自分の書いたものを修正する動機の重要な要素だ。単に意味が通じるかどうかだけではなく、文の長さやリズムといったものも、私が気に入るように直していく。その間、指はローマ字キーボードの上で忙しく動いているが、ほとんど意識はされない。ブラインドタッチを習得しようとしていた頃は、右の人差し指が「J」、左人差し指が「f」の位置にあることを度々確認していたが、今は、そんなことは意識されない。
・・・といったことを、再び、私は言葉にしている。
もし、この航海誌を読む人がいれば、その人は自分のパソコン・・・それがWindowsか、Macかは知らないが・・・の画面を通じて言葉に触れることになる。もし日本語を知らない人がこの航海誌を読めば、なんらかの言葉があることは推測できても、その意味内容には触れることはできない。同じものを目にしていながら、言葉を知っている者に開かれている世界が、言葉を知らない者には閉じられている。
私たちは、言葉を使って考え(言葉を使わないで考えることの可能性について、課題は残しつつも)、言葉を通じて他者の考えを知る。なにを考え、なにを語るにしても、そこに言葉が使用されている以上、まずは、その言葉とは何かについて考え、言葉についての言葉を重ねることは無意味とは言えないだろう。
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※ルドルフ シュタイナー, 自由の哲学, (ちくま学芸文庫), ISBN: 9784480087140
2012/01/03/Tue言葉の素材
椅子という道具は椅子の「形」と、その「形」を物理的に感覚できるようにする「素材(材料)」とによってできている。たとえば、4本の足と丸い座面とで構成される椅子は、木材で作ったり、鉄で作ったり、プラスチックで作ったり、革を組み合わせたり、氷や石で作ることもできる。
言葉についても、言葉の「形」と「素材」という観点で考えることができるだろう。言葉の素材としては、まず、私たちの身体を使った音声を思いつくし、紙などに書かれた文字がある。また、手や指、顔の表情などを使った手話という言葉もある。
私たちはこうした素材を通じて言葉を受け取る。感覚的な素材を一切用いずに言葉を受け取ることは不可能に思われる。そして同じ言葉が大きな声、小さな声、細い声、朗々とした声によって語り分けられれば、受ける印象はずいぶんと変わる。場合によっては意味内容も影響を受けることがある。文字の場合であれば、それが手書きなのか印刷されたものなのか、印刷された場合もその文字のフォントなどによって、印象が変わる。厳粛な意味を込めた式辞に丸文字などは使われない。
しかし、言葉は、素材の影響は受けつつも、素材の影響から免れようとする。
コンピューターの特徴は、データの単位を1か0かふたつの状態にし、データが劣化しないようにしている。1か0を表現する方法は、その素材によって、電圧の高低や、磁気ディスクの磁力の有無、あるいは、光ディスクの光を反射する孔の有無、はたまた、紙テープの穴の有無などで表される。素材の特徴を利用しつつも、1もしくは0というふたつの状態を区別するという、データの基本的単位の機能は、どの素材を用いても保証される。
私たちの言葉も、コンピュータのように単純に1か0の2つ状態ではないが、英語ならアルファベット26文字、日本語であれば、ひらがな50音を区別するなど、有限の基本単位を区別することを基礎にしている。
風邪を引いたときのかすれた声で、「あ゛」と言う場合であっても、元気なはっきりした声で「あ・」と言う場合であっても、単語を形成する音としての「あ」としては違いはない。正確には、そこにははっきりと違いがあるのだが、その違いを私たちは無視する。そうした素材の個別的な特徴を無視することで、言葉の基本単位を私たちは認識していると思われる。
言葉が伝えられていくとき、たとえば、音声が文字に置き換えられるとき、日本語が英語に翻訳されるとき、人から聞いた話を別な人に伝えるとき、言葉の素材はその都度変わり、素材の特徴によって表現されていた言葉の微妙なニュアンスは、別な素材で表現されるときに、「特別な手当」を施さなければ消え去っていく。以前の素材によって生じていたニュアンスが消え、新しい素材によって別なニュアンスがそこに加えられる。
2012/01/04/Wed言葉にできない領域
何かがなんであるかを考えるとき、何かと何かでないものを比べてみるのは、気づきのきっかけになることがある。たとえば、人間とは何かを考えるときに、人間でないもの、動物や植物、鉱物などと比べ、その共通点や差異を観察したり考えたりする。
「言葉」と「言葉でないもの」を比較しようとすると、私は両者を比較するにふさわしい公平な地点に立っていないことに気づく。「言葉でないもの」に、「言葉でないもの」という言葉があてられて表現されているのだ。なんと、言葉の貪欲なことか。低地の乾いたところがあれば水が容赦なく押し寄せてくるように、言葉で表現されていない領域が発見されるやいなや、私は、その領域を言葉にしようとする。
もちろん、その領域を「言葉にはできないなにか」という言葉で呼んだとしても、その領域について言い尽くしたことにはならない。現時点では言語化できない領域があることを気づかせるだけであり、「言葉にはできない」という言葉は、その領域を囲む柵か、あるいはその領域への道標でしかない。その領域は、その後「愛」と呼ばれるようになるのか、はたまた「風景」と呼ばれるようになるのか、あるいは、永遠に言葉にならないままなのか、あらゆる可能性を含んだ領域だ。
@「言葉にできない」というのは、その領域そのものよりも、逆に私の能力の欠如を明らかにする場合もある。Aあるいは、「言葉にできないのではなく、あえて、言葉にしようとは思わない。そのまま、言葉にできないものとして尊ぶ」という私の態度を述べているのかもしれない。いずれにせよ、「言葉に@できない、Aしない」の意味内容を吟味していくと、その領域が、@私の言語能力を越えた複雑さがあること、あるいは、Aなんらかの神聖さを含んでいることなど、の推測をすることができる。その推測によって、その領域が存在することさえ気づかなかったときよりも理解が進んでいる。しかし、「言葉にできない」領域の本質は依然、秘密であり、謎なのだ。
言葉は、少なくとも何かを指し示そうとする。その何かが不明で、謎で、秘密であっても、それを「謎」、「秘密」という言葉で呼ぶことで、その存在が示されている。
このように考えてくると、言葉にできている領域も、何かを指し示している以上に、本質的に意味のあることを果たして述べているのだろうかという反省が生まれる。もし、そこに内実があるとすれば、その内実とは何であろうか?
確かに私には、何かが「言葉にできない」とか「よくわからない」という表現で指し示す感覚があるのだから、論理的には、その感覚がない場合には、「言葉にできている」、「よくわかっている」という感覚があることになる。しかし、「言葉にできている」、「わかっている」という感覚はなかなか味わうことはできない。「わかっている/わからない」とか、「言葉にできている/できていない」というのは、自己に焦点が当てられているときの感覚だが、「わからない」、「言葉にできない」時にこそ、自己に焦点が当てられ、そうでないときには、対象に焦点が当てられている。そこに言葉が介在するなら、言葉は透明になり、言葉が即、対象物であるかのように私は思考し、活動している。
そして、そのような思考と活動を反省し、そのときに使用された言葉が本当に表現したいことを言い表していたか、言葉にできていたのか、よくわかっていたのかを考え、一体、私は何をわかっているのかを噛みしめようとすると、それは、「言葉にできているつもり」、「よくわかっているつもり」という、「つもり」という言葉を付け足さざるを得なくなる。
2012/01/05/Thu言葉にしている領域
ここで、いったん言葉にできない領域を離れ、「言葉にしている」領域について考えてみる。
絵に描いた餅が食べられないように、言葉の餅も食べることはできない。一般意味論では、「地図は現地ではない」のと同様に「コトバは物(そのもの)ではない」ことを強調している。(※ p30)
言葉が物そのものでないことは、言われてみるとさして驚くようなことではなく、当たり前のように思われる。しかし、その当たり前のことが通常は忘れられていて、私たちは、言葉が物そのものであるかのように生活している。
たとえば、ここで私が使っている買ったばかりのポメラという単三乾電池2本で動くテキスト入力専用の携帯端末。これを買うにあたって、私は、グーグルで「ポメラ レビュー」と言った言葉で検索をし、見知らぬ人々の書いた言葉を読んだ。もちろん、店頭で少し触ってもみたが、インターネットで拾った言葉も参考にしている。購入の前日の昼休みに、そんなサイトを見ていたら同僚が自分の意見を述べた。ネットワーク接続ができないのが不満だという意見だった。今の時代、クラウドにデータを置くことができなければあまり魅力は感じないということだった。彼は、旧型のポメラを持っていたが手放したとも言った。これも言葉である。この同僚の言葉によって、実はその日のうちに買うつもりだったのだが、一晩考えるはめになったのである。
仕事で、「これこれしかじかのものをいついつまでに作ってくれ」という指示を受ける。これも言葉であるが、その言葉に従って、私たちはスケジュールを決め(それも言葉で)、具体的な作業内容を決め(それもまた言葉だ)、分担をして、さらにいくつかの言葉のやりとりをした後、やっと言葉を使わないで作業をする。しかし、その言葉を使わない作業の間であっても、私は、自分の作業を確認し、うまくいっているとか、ちょっとまずいなという言葉を声には出さずに自分自身に語りかけている。そして、うまくいっていると語りかけているときには、私はそのまま作業を進めるし、ちょっとまずいなと語りかけているときには、再び言葉を使って、うまくいっていない状況を上司に説明することになる。
そのときに上司がうまくいっていない原因を私のうっかりミスや努力不足といったものであると決めつけ、そのことを言葉で私に告げるなら、私の感情は傷つき、仕事へのモチベーションが下がる。
日常生活の中で、私たちは、言葉で語られていることにリアリティを感じ、真剣に応じているからこそ、協力作業が可能であり、言葉にまともに反応しているからこそ、感情が高揚したり傷ついたりする。
もしある人に「馬鹿」と言われれば、感情が害され、「馬鹿にするな」と怒る。しかし、その人の言葉に魔法のような力があって、もし、その人が私に「馬鹿」といったとたん、私の脳細胞が変質して思考能力が半減するという事態が確認できないのであれば、私はいったい何に腹を立てているのだろうか?
確かに言葉は物そのものではないが、言葉には私たちを動かす力がある。目の前に何人かの人が椅子に座っているとしよう。その人たち全員を立ち上がらせるのに、言葉を使わなければ、ひとりひとりの手をとって引っ張りあげなければならない。私より体重が重い人を引き上げるのは無理であろうし、立ち上がらせても、次の人に取りかかっていると前の人は再び腰を下ろしてしまうかもしれない。
言葉を使えば、たった一言、「ご起立願います」と言えばよいのである。
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※S.I.ハヤカワ, 思考と行動における言語, (岩波書店), ISBN: 9784000009775
2012/01/06/Fri言葉と四つのレイヤー
私は、「言葉以前のあの感じ」を、素材(音声、声に出さない心の中の音声、ペンで書き出した紙の上の文字、キーボードをたたいて表示させたディスプレイ上の文字)を用いて言葉にし、その言葉を私自身が味わい、どうもうまく表現できていないという違和感を調整するために、再び言葉を重ねるか、あるいは、紙の上の文字であれば、それを削除して修正していく。
「言葉以前のあの感じ」をとりあえず、ここでは<イメージ>と呼ぶ。イメージは私の内にあり、おぼろげに感覚される。そのイメージは、今、ディスプレイ上の文字という、私の外側で感覚可能なものを生じさせる。私は、それによってはっきりとした感覚を得ることができる。このディスプレイ上の光学的なパターンの類を、ここでは<メディア>と呼ぼう。もし、音声を発すれば、空気の振動がメディアに該当することになる。メディアには、私のイメージが原因となってある変化が生じている。その変化を直接に発生させているのは、私の身体である。これまでの呼称がカタカナだったから、統一的に<ボディ>と呼ぼう。イメージとボディの間に、具体的にボディを動かし、メディアに一定の規則性のある痕跡を記していくための、身体操作法がある。その操作法は、日本語を使うときと英語を使うときとでは異なる。しゃべるときと書くときとでは異なる。この操作法を<ボディワーク>と呼ぼう。
このように言葉の断面を観察すると、イメージ、ボディワーク、ボディ、メディアという4つの層(レイヤー)があるということも可能だろう。そして、この4つの層の中で言葉の中心的なものは、ボディワークであるといってよいかもしれない。
ボディワークを詳細に観察すれば、文法というルールが規律する層、発声法、あるいはペンの持ち方、筆順、ブラインドタッチといった低位の身体のコントロールに関わるところ・・・と、より細かく階層構造を見て取ることができるだろう。
2012/01/07/Sat自分の言葉を聴く
私の体の一部である眼球は、光を神経細胞の電気的な信号に変換する「変換器」であるという見方もできる。眼球に関しては、その変換は一方通行だ。光を信号に変換するが、信号を光には変換しない。もしそれができたなら、ちょうどプロジェクターが画像を移すように、目から光が投射されて、頭の中の視覚イメージが投影できることになる。

その代わりに私は、言葉を用いて、イメージを感覚可能なものにする。<イメージ>を<ボディワーク>、<ボディ>を通じて、<メディア>上の痕跡へと変換している。そして、この4つのレイヤーを通じて行われる変換は、逆方向にも働く。
私は紙に書かれた黒い模様(メディア)を、自分の目で見て(ボディ)、日本語の文字、文章と認識し(ボディワーク)、その文字の連なりから意味(イメージ)を取り出す。この<メディア>から<イメージ>へと上昇していくプロセスを通じて、私は他者の言葉を理解する。

ところで、この言葉を理解するプロセスは、他者の言葉だけでなく、私自身の言葉に対しても常に行われている。私自身の言葉をモニターすることによって、ボディワークの調整が行われる。
私が英語を学んだときは、母国語である日本語を自然に覚えたときとは随分異なるやり方で学んだ。A、B、C・・・を覚え、そのときの発音の仕方、唇の形、舌の位置などのボディワークを分解的に覚えた。そうして、一番下位レベルのボディワークからブロックを積み上げるようにして、単語、センテンス、文法というように、より複雑で総合的な上位の技術を学んでいった。
子供が母国語を覚えるときには、そのようにボディワークをひとつひとつ分解して覚えはしない。「あ」と発音するときの舌の位置などを教えられはしない。主語、述語などの文法も習わない。どのようにして、ボディワークを身につけたのか? それは、ボディワークの結果である自分自身の声を自分自身で聞き、親を始めとする他者の声と聞き比べ、違いに気づき、自らボディワークを調整していくことで、身につけてきたのだと思う。そうしたやり方が可能なのは、自らのボディワークの結果である自分自身の声を聴くという、システム論的には、フィードバックと呼ばれる仕組みがあるからだ。

間違った発音や言葉の使い方は、ときには、親に注意されるような形で指摘されるだろう。その場合でも、注意されることはきっかけに過ぎない。その注意によって、自分の言葉の使い方と親の言葉の使い方の違いを感じ取れなければ、自分の言葉を修正するということはできないと思われる。そして、親や大人も、子供の言い間違えは笑って見過ごし、それよりも、ちょっとした言葉を覚えたことに驚いたり喜んだりし、子供は、のびのびと楽しみながら言葉を覚えていった。
私が母国語を身につけたときには、人に伝えたい「何か(イメージ)」があり、とにかく、それを言葉にしてみて、その言葉を自分自身が聞き、言葉を調整してきた。どのように伝えるかという方法であるボディワークは、自分で工夫して作り上げてきた。重要なのは、しゃべりたい「何か」を感じ、しゃべった後の自分の言葉をまた感じ、そして、他者から反応を得てきたことだったように思う。
2012/01/08/Sun対人的ボディワーク
言葉をボディワーク(身体操作法)のひとつとして考えた場合、ボディワークにはほかにもいろいろある。山の歩き方、木登りの仕方、泳ぎ方、食べられる木の実の見分け方、獲物の取り方。米や野菜、家畜の育て方、絵を描いたり、舞踊をしたり、武術やスポーツ。意識的な技術として、さまざまなボディワークがある。こうしたボディワークも、実行した後は、うまくできた、できなかったという反省が生じ、再び、より洗練されたボディワークへと調整されていく。つまり、実際に自分の行っているボディワークそのものやその結果を観察して、そのボディワークのイメージを持ち、それをイメージの中で修正して、具体的な身体の動きへと反映させていく点では、言葉と同様である。
ところで、歩く、木を切る、泳ぐ、野菜を育てる、馬に乗る、道具を使う・・・といったボディワークは、その対象は、物や植物や動物であり、ボディワークの結果は物理的なものであったり、植物や動物の習性に対応し、その自然的な習性を利用したものである。
それに対して、芸術や武術、スポーツ、そして、言葉は、対人的であり、相手が人であることが前提のボディワークである。ガラス職人が溶けたガラスを球にするために、「フーッ」と息を吐くのは、対物的なボディワークだが、"Who?" と発声するのは、相手が英語というボディワークを知っている人間であることを前提としている。猫に対して使えば、威嚇していることになるかもしれない。

ここに書き連ねた文字も、物理的には、ポメラの電池を消費するという程度の効果しかないが、日本語を解する人には、なんらかの意味を生じさせる。言葉というボディワークは対人的である。
何よりも、私たちは、言葉を人間関係の中で身につけてきた。
そして、言葉の対人性は、実際に言葉を発するときにも強く影響する。日本語は、自分を表す言葉も、「自分」、「私」、「僕」・・・とあり、それをその場の状況に応じて使い分ける。
そして、話す話題も、相手との関係から選ばれることがある。言葉の層(レイヤー)は、単純にトップダウン方式で、上部のイメージが機械的に、下部のボディへ下りてくるのではなく、常にボディから得られる感覚や情報を元にイメージが変化し、その時の場や関係にふさわしい言葉が選ばれ、声や文字になる。
言葉が対人的であることは、言葉を単にコミュニケーションの道具と捉えれば、あたりまえのことかもしれない。
しかし、私がここで言葉の対人性に、新鮮に驚いたのは、自分が孤独のうちに考えているときですら、言葉を用いているからだ。
私は考えるときには、一人で考える。たとえ人と一緒のときでも、考えるときにはその瞬間、内へと引きこもる。ときには、他者との日常的な会話などが煩わしく、一人で考えていたほうが楽しいと思うときもある。むしろ、そう思う時のほうが多い。しかし、言葉を用いて考えているとき、その言葉全体を扱う私は引きこもっていても、言葉ひとつひとつには、他者との関係が既に織り込まれていて、他者との関係を求めて叫んでいる・・・そんなイメージが頭に浮かんだ・・・。
2012/01/09/Mon記号的ボディワーク
言葉が対人的なボディワークであるとして、他の対人的なボディワーク、例えば、絵や音楽、舞踊などと何が違うのだろうか。
言葉の最小単位は、日本語であれば「あいうえお」の50音であり、英語であればアルファベット26文字という、「記号」である。記号そのものは、特定の感覚的な素材には依存せず、音で表しても、白い紙の上の黒いインクの形や、砂浜に棒で描いた溝で表してもよい。重要なのは、たとえばアルファベットであれば、26種類の区別がされることである。
単位としての記号は、他の記号と区別されることを旨としている。その区別を感覚的に感じるために、聴覚上の音声や、視覚上の形が用いられているが、その音声そのものや、形そのもは記号にとって本質的ではない。もちろん、特定の記号に特定の音声、または特定の形が結びつけられているのは、人間の身体生理上の理由や、歴史的な理由があるだろうが、いったん、記号が成立すれば、基本的にその音やその形である必然性はない。ただ、他の記号と区別でき、その記号であることを恒常的に示すことができればよい。つまり、「あいうえお」は、「aiueo」に置き換えてもよいし、「●◆〒■○」に置き換えてもよい。

言葉の最底辺が、素材の性質に依存しない記号であるから、身体についても特定の部位や感覚器官に依存しない。私たちの多数は、言葉を聴覚を通じて音声として学び、同様に、視覚を通じて文字という形で学んでいるが、必ずしも、記号は聴覚・視覚を絶対的な前提条件にするものではない。ヘレン・ケラーは、触覚を通じて言葉を学んだ。
このように、言葉はボディワークでありながら、記号的であり、身体の特定の部位や外界の特定の媒体に依存しない性質を持っている。言葉は、記号によって世界から切断されていると言ってよいかもしれない。
音楽は確かに楽譜という記号で表すことも可能だが、音楽の本質は、空気を振動させ、聴覚を通じて、あるイメージを聞く者に引き起こすことである。絵画は、平面上に形と色彩を展開し、視覚を通じて、見る者の感情を動かす。このように、身体の特定の部位や外界の特定の媒体に結びついているボディワークは、具体的であり、個別的である。
記号的な性質を持っている言葉は、特定の感覚に縛られないため、聴覚を通じて得られたイメージであろうと、視覚を通じて得られたイメージであろうと、臭いであろうと、味覚であろうと、すべてを言葉として指し示すことができる。
その点、音楽を絵画で表現したり、見た情景を音楽で表現することは、難しい。確かにそのような創造的な表現は可能だが、表現者が聞いた音楽を、絵画を通じて別な者に伝えたときに、伝えられた者は、同じような音楽を心に響かせることはなかなかできないと思われる。
記号的な性質を持っている言葉は、特定の媒体に縛られないため、音声から文字、日本語から英語に、と翻訳することができる。同じ日本語であっても、昔の文語体から現代の口語体に翻訳される。もちろん、言葉の味わいやニュアンスなどは変わるが、翻訳が正しければ、基本的に意味されるところは、そのまま保持されるだろう。
2012/01/10/Tue記号とイメージ
言葉は、その構成要素の最小単位に記号を用いている。記号は、聴覚上の音声や視覚上の形など感覚可能な媒体によって表されるが、媒体上の感覚に記号の本質はなく、記号そのものは、他の記号との差異を示すに過ぎない。しかし、これだけでは、記号を説明したことにならない。そのような記号の特徴によって何が生じているのか?
「あ」という文字は記号だが、その記号を組み合わせた「あさ」という単語もまた記号である。どれだけ、複雑に記号を組み合わせても、記号そのものからは何も生じない。記号から「何か」を生じさせているのは、私たち自身である。
記号に過ぎない言葉に触れて、私たちは、実際にはそこに「そのもの」がないのに、あるがごとくのイメージ、情景を思い浮かべることができる。そして、怒りや悲しみ、うれしさ、懐かしさなど様々な感情が生じる。さらに、単なる反射運動ではない、目的を持った一定の系統だった行動が生じる。
たとえば、「火事だ、逃げろ」という言葉によって、燃える炎は見ていなくても、危険が迫っているというイメージが生じ、恐れを感じ、エレベータを避けて非常階段へと足を早める。
ただし、言葉から直接に、感情や行動が生じるのではなく、まずイメージが生じ、イメージから感情や行動が生じる。正確に言葉を伝えても、そこからイメージが浮かばなければ、感情は動かないし、行動に至らない。「火事だ」と叫んだ人が日頃から冗談をいう人で、しかも笑いながら言えば、真に迫った危険のイメージは生じないだろう。
また、イメージが浮かんだとしても、言葉に示された行動に至るとは限らない。もし、奥の部屋に子供が寝ていれば、逃げる人々の流れに逆らって、危険な方向へ向かうだろう。
※イメージ」は「意味」といってもよいと思う。この先、イメージと意味の違いを考えることになるかもしれない。
もし、記号から直接に、身体動作が生じるとしたら、それはちょうどコンピューターがプログラムという記号を読み込んで一定の処理を行うような、自動的な行動となり、そこに自由はない。イメージ(意味)は、私たちが自由、自律的な行動をとるための前提と思われる。

記号そのものには、イメージを生じさせる力はない。そもそも、ある一定の音をただの音と聞くか、それとも音声という記号として聞くか、あるいは、紙の上のある一定の形をただの線と見るか、それとも文字という記号として読むか、記号を見つけるところから、私たちの言葉のボディワークは始まっている。
深夜の博物館で、展示されている恐竜や歴史上の人物の人形が生命をもって動くという映画があったが、もし、記号そのものからイメージが、ひとりで生じるとしたら、深夜の図書館の書庫にはどんなドラマが展開されるだろう。
しかし、現実には図書館の書庫にある膨大な本は、人がそれを読まない限りただの汚れた紙の束に過ぎない。
2012/01/11/Wed言葉の中の構造

言葉の底辺は記号である。記号は、たとえば、「山」という記号が意味を持つには、言葉の外の世界に対応しなければならない。山を別な言葉で、たとえば「地面が周辺より隆起しており、高さがあるもの」といった説明をしても、再び、「地面」、「隆起」、「高さ」といった記号の説明が必要となり、その説明がゴールするには、言葉の世界を出て、私たちの体験を指し示さなければならない。
しかし、言葉は単に体験を指し示す記号が”無秩序に”集合したものではない。構造を持っている。構造によって、私たちは個々の記号の意味を知らなくても、類推をすることができる。たとえば、「ヘルモステが、ブリロルをテニッテスた。」という言葉の意味はわからないが、ある類推は可能である。日本語であれば、主語(しばしば省略される)、目的語、動詞といった語順で言葉は述べられる。

また、それ自体では何も指し示さない、助詞、助動詞といった言葉の記号は、そのような構造を明らかにする働きがある。
構造は、英語、日本語、中国語などで異なるが、構造が存在するということについては共通していると思われる。そして、言葉の構造は、図や絵画と異なり、時間軸に沿って直線的に記号を並べていくことで示される。構造は、1本の時間軸上の順番として示される。
この言葉の持つ、時間的に1本の直線性は、私たちが意識のスポットライトを一度にひとつのものにしか当てることができないことに対応しているように思われる。私たちは、ひとつのことに意識を当てると、その直前までスポットライトが当てられていたことは闇の中に沈む。複数の要素を同時に意識しようとすると、その複数のものをひとつの全体としてスポットライトを当てなければならず、光の絞りは広める代わりに、その光は絞った時よりも弱まり、構成要素の詳細はぼやけていく。

私たちは、右手で昨日の日記を書き、左手で新しい小説を書き、口で明日の予定を話す・・・のを同時に行うことはできない。イメージを言葉にする私たちの活動は、一度にひとつの事柄に焦点を当てていく。(それとは別の活動、例えば、心臓の鼓動、呼吸、消化・・・といった活動は、同時に行われている。)
2012/01/12/Thu言葉の中の時間
言葉は一本の時間軸という時の流れに沿いながら、それでいて、その流れは言葉の外の時間の流れとは異なる。
言葉の外側で一瞬に同時に起きている出来事がスナップショットされ、言葉の構造の中に置かれたときには、まどろこしくも、順番に述べられなければならない。
「熊だ、逃げろ」「たいへんだ、狼が来た」「敵だ、敵がきたぞ」
異口同音というが、この場合は、異口”異”音である。しかし、状況は、ある村の、北の門からは熊が進入し、南の垣根を狼が飛び越えて来て、東からは敵の一団の迫る土煙が見える・・・という場面である。この村に発生している一瞬の危機的状況も言葉にすると、時間軸上に展開するしかなく、言葉を聞いた人々は、東西南北へ右往左往する。
言葉は、口にするときや書き始めるときがあり、口をつぐむときや書き終わるときがある。時間軸上の言葉の直線には始点と終点がある。そして、その始点と終点は私たちによって決められる。もし、私たちが何か、言葉の外のものを言葉に写そうとする。言葉の始点以前よりそのものは存在していたし、言葉が終わっても存在しているだろう。しかし、言葉の中に記号化された「それ」は、私たちが口をつぐむとともに消える。
あるいは、言葉にしたとき、言葉に写されたものは固着されることになる。生きて動いていた昆虫が標本にされるように、言葉の中に封じ込められる。
そして、その固着された世界が、繰り返して語られ、繰り返して読まれる。
「カエサルは死んだ」。この一回限りの歴史的事実が、言葉の世界では、何度も語られ、増殖をしていく。
私たちは、言葉を語るとき、言葉を書くとき、あるいは、言葉を聞き、言葉を読むときに、現実の時間軸から離れ、語り手の作り出した始点から終点までを、言葉の時間軸に沿って歩むことになる。
私たちの多くが、なんらかの言葉上の職業や役割に付き、それに基づいて、日常の予定や計画が作られ、それに従って生きている。としたら、そのような私たちの営みは、現実と異なる言葉の時間軸が、現実の時間軸へと浸食していく現象なのかもしれない。
2012/01/13/Fri感覚、イメージ、コトバ
目の前にコーヒーカップがある。カップを机の上から取り上げれば、机の上には何もなくなるが、私が、「カップ」と言葉にしても、そのことだけで机上のコーヒーカップは変化しない。私が、言葉の中に取り上げたものは、コーヒーカップそのものではない。言葉の中にとりあげたものを、ここでは「イメージ」と呼ぶことにする。
イメージは、言葉になる前の「なにか」であり、言葉によって生じる「なにか」でもある。言葉は、イメージを音声や文字という時間軸上の記号に変換して感覚可能にしたものである。イメージを表すには、言葉以外にも、平面的な図形や絵画、立体的な彫刻などの作品によっても表されるし、舞踊や、茶道などの私たちの身体の動きによっても、感覚可能な形に表現される。したがって、ここでは、イメージを感覚可能なものにしたものを広義に捉えて「コトバ」と表現し、イメージとの関係を考えてみる。
イメージは、コトバによって表され、直接に感覚することは難しい。はっきりとイメージを感覚するには、なんらかのコトバに変換する必要があるように思える。
コトバを発する者は、発した後に自らのコトバを味わい、コトバから生まれたイメージと元のイメージとの違いを感じ、うまく表現できていないと感じれば、コトバを修正していく。コトバになる前のイメージのほのかな感覚は、このように、なんらかの差異や違和感のように感じられることが多い。
一方、コトバを受ける者は、コトバからイメージが浮かばなかったり、あいまいなものであったりすると、そこに生じたあいまいさを「わからない」、「理解できない」という言葉にする。
イメージは、コトバからも生じるし、コトバを媒介にしない感覚からも直接に生じる。子供が目新しい何かを目にしたときの「これなに?」と尋ねるときの、「これ」という言葉で指し示すときの、子供の中で生じているであろう「感じ」がイメージである。そして、子供がイメージを得る前提となった、身体の視覚や聴覚、触覚を通じて得たものが感覚である。「これ」や「それ」という短くて汎用的な言葉の力を考えずにはいられない。この言葉を知ったことにより、私たちは大きな一歩を踏み出すことができる。
目の前に赤い自動車が私に向き合うように止まっている。視覚上は車の前面しか見ることはできない。それを私は「その赤い車」と呼んでいるが、もし、私がその車の横へ回って車の側面を目にしても「その赤い車」と呼ぶだろう。車の前面と側面では視覚上の感覚は異なるにも関わらず、そこに同一性を認めるのは、私の身体の内部で働く私の活動である。それを先に私は、ボディワークとも表現した。感覚は私のボディワークを通じて、イメージになり、コトバになる。私たちの外側にある「事物そのもの」がそのままコトバになるのではなく、私たちのボディワークによって生じたイメージがコトバになる。
「感覚」は、イメージ以前の混沌としたもの、その時その場限りのもので、一過性で、とぎれたり、ばらばらだったりする。「イメージ」は、感覚そのままではなく、感覚が統合されたものである。
2012/01/14/Sat主体としての私
感覚、イメージ、コトバといった互いに変換しあうこれらの概念の中心で、変換を生じさせている主体がある。それが「私」である。イメージはひとりでに言葉になるわけではなく、私の活動を通じて言葉になる。感覚からひとりでにイメージが生じるのではなく、感覚を統合し秩序づけ、まとめていく私の活動(※)によってイメージが生じる。
私は、感覚からイメージを生じさせ、イメージを再び言葉など感覚可能なものに変換する。感覚は私にとって与えられた条件であり、イメージとコトバは、私の活動による結果である。
言葉にされるイメージは、視覚的なものであれば、私から距離をおいて眺められるものであるし、音声的なものであれば、それを私は外からの声として聞く。イメージは対象化され、私自身は、そのイメージの外に立つ。目を閉じて、ある光景を思い浮かべても、それを私は外側にある光景のように眺めている。
イメージの中に、イメージを作っている私自身は入り込めない。イメージを眺める私自身は入り込むことはない。たとえ、私が私自身のことを述べたとしても、述べている瞬間の、述べている「この私」自身は語られない。私は、過去のイメージとしての「あの私」か、理想的な「その私」のイメージを語っているに過ぎない。そのように常に、言葉にしようとしても言葉の背後にまわり、語られることのない活動の主体が、今ここで生きて活動している私自身である。
活動者である私は、活動を終えた後の結果やその時の感覚を想起し総合させて、過去の自分のイメージを作ることはできるが、活動の最中にその活動そのもののイメージを作ることはできない。活動は常に外側に対象を必要としており、自らを対象としては活動できない。
そのような生きて活動している私は、しばしば私自身よりも、私以外の他者によって観察される。
今、隣で化粧をしている女性がいるが、その女性は、鏡の中の自分と理想的な自分のイメージとを一致させようと活動をしていると思われる。そうした活動をしている彼女は、他者である私によって観察されているが、彼女自身には観察されていない。もし、女性が自分の活動そのものを意識して観察していたら、うまく化粧はできないだろう。
今、化粧を終えた女性は、隣でポメラのキーをたたいている男を横目で観察し始めたようである・・・。
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※ シュタイナーは、感覚を私たちの内側に取り入れる私たちの活動を「観察」と呼び、概念(イメージ)を生じさせる活動を「思考」と呼んだ。私が彼の用語に従って「思考」という言葉を用いたら、ある人が、それは「認知」と呼んだほうがよいのではないかと言った。それについては、今後に検討するとして、とりあえずここでは「活動」と呼ぶ。
2012/01/15/Sun言葉の中の感情
私たちは、言葉によって、自分の身体のこと、身近な出来事、政治、経済、自然、宇宙、存在するもの、ただの空想・・・とあらゆるものを表現する。そうした、あらゆるものをまず、イメージとここでは呼ぶ。すると、感情や意志もそのようなイメージのひとつではないかという問いが生じる。たとえば、「私は怒りのあまり席を立った」という表現は感情を表現していて、「私は日記をこれから毎日書くつもりだ」という文章は意志を表現していると言うこともできる。
しかし、ここで私がイメージとは区別しようとする「感情」や「意志」は、イメージの一部としてはっきりと表現された感情や意志ではない。イメージの外側にある、常にイメージを創り出し、イメージの中に入り込まない「私」自身の、感情や意志のことである。
写真を撮ると、通常は写真の中には写されないはずの撮影者の影が写っていたり、被写体に金属部分があるときに、撮影者の姿が写り込むことがある。言葉の中にイメージとともに封じ込まれる感情や意志とは、そのような、撮影者自身の影のようなものである。語り手自身の感情と意思が言葉に反映される。
言葉にしようとしても言葉の背後にまわり、不可視である「私」自身の感情と意思が、言葉に反映される。
感情は、言葉の中で語られるイメージに対する、語り手自身の関係を物語っている。たとえば、「美しい女性に出会った」という出来事のイメージが述べられたときに、そこにもし感情が込められているとしたら、「美しい」というのは単に対象について客観的に述べた形容詞であることよりも、語り手の女性に対する感情を物語り、さらに、「いた」と表現せずに「出会った」という表現に、その女性についてだけでなく、語り手自身のその出来事に対する感情を感じることができる。
2012/01/16/Mon言葉の中の感情(続)
イメージはこの世に存在しない出来事であったり、あからさまな嘘であったりもする。しかし、そうしたイメージが語られているという事実は常に真であるから、語り手が存在することも真であり、そして、そのようなイメージ、それが事実であっても架空であっても嘘であっても、それに対する語り手の感情が存在するのも事実である。イメージの内容は事実でなくても、イメージに対する感情は事実である。
言葉の中のイメージはしばしばリアリティを失うが、感情がそこにリアリティを復活させる。
言葉に織り込まれる感情は、語られる内容であるイメージに対して生じる場合もあれば、語る相手への感情が、言葉に反映されることもあるだろう。母親が子供に「桃太郎」の話をする時、母親の感情は桃太郎や犬や猿に対して生じているのではなく、目の前の我が子に対して生じており、それが、語り口に反映されるだろう。部下が上司に問題を報告する時に、問題に対する感情よりも、目の前の上司に対する感情が反映される場合があるだろう。また、その場で話題になっていないまったく別な問題に気を取られていて、話題に身が入らず、「気のない返事」になったりする。
通常は意図しなくても、自然に選ばれた言葉や、声の調子などで、話し手の感情や意志が言葉の中に映り込む。特に話し言葉は、その人の生身の身体が必要不可欠で、しかも、訂正が効かないから、感情と意志の自然な映り込みが生じるように思われる。
先に言葉は、世界のスナップショットであり、変化している世界の一瞬を、言葉の時間軸に構造化しているものであると述べた。語り手の感情は、常に変化して動いている。たとえば「私は怒っている!」という意図的な感情の表現とともに、実際の語り手の感情が「!」に反映されたと仮定しよう。しかし、そのように表現することによって怒りが穏やかになる場合もあるだろうし、反対に、さらに怒りが増すこともあるかもしれない。言葉の中の感情は、その瞬間の感情である。
2012/01/17/Tue物語とリクエスト 〜リクエスト〜
言葉には、イメージと感情と意志が織り込まれる。言葉に織り込まれる意志は、人への命令や指示、依願といった他者の行動を期待する意志として表されることがしばしばある。ビジネスの言葉はそのような言葉で満ちている。
そして、言葉に命令や指示など他者へのリクエストが表される場合、イメージはその期待される行動を説明したものになる。
リクエストは、言葉の語り手を離れては成立しない。言葉を受け取った者がそのリクエストに応じるかどうかは、通常、言葉の内容にもよるが、誰からのリクエストなのかが重要になる。リクエストの言葉は、誰から誰へ、どのような時に、どのような場所で、どのような感情を伴って、その言葉が伝えられたかという、言葉が語られる「背景・文脈」に依存する。
突然、見知らぬ人から「ここにメモしてある物を至急購入するように」と言われても私たちは応じないが、会社の上司に言われれば応じる。しかし、同じ上司が、深夜に自宅に酔っぱらって押し掛けてきて同じことを言っても、寝床を抜けて買い物に行こうとはしないだろう。
リクエストの言葉通りに相手が行動するかどうかは、相手の自由に任せられる。相手は私の言葉を聞き、イメージを構築し、その時その場所その関係を勘案し、さらに相手自身のそれまでの自己イメージに合致するかどうか、理想なイメージに合致するかどうかが判断され、その行動の結果が推測され、そして行動に移される。
通常は、リクエストする方も、そのような相手と自分の関係や、相手の立場などの「文脈」を感じとっていて、その文脈に沿って命令や指示などを行う。
もし、リクエスト通りの行動が起きなかった場合、―それはまったく行動が生じない場合もあるし、不完全であったりする場合もあるが―、そうした行動が不完全であるという観点を持ち得るのは、言葉の受け手ではなく、言葉を発した者である。したがって、なぜ、言葉通りに相手が動かないか、反省的に考えるポジションとしては、言葉を発した者が適当であろう。
私が行動をする場合、イメージは私の身体の神経系の信号を通じて自分自身の行動へと反映されるが、相手の行動を期待する場合、イメージは言葉を経由するのであって、神経の中を伝播する信号のようには伝わらない。相手と私の間には、私のイメージ通りに相手が行動するような自然な仕組みはできてはいない。
それなのに、しばしば、というよりも頻繁にあることだが、自分のリクエスト通りに動かない他者にその責任を求め、怒りの感情を生じさせる。親は、「どうして、親の言うことをきけないの!」と子供を怒り、子供は子供で自分の言うことをきかない親に癇癪を起し、大人になれば、部下、上司、店員、政治家、また自分の子供・・・が、思い通りに動かないことに腹を立てる。
2012/01/18/Wed物語とリクエスト 〜物語〜
リクエストの言葉が、言葉を発した者を離れて存在しえないのとは異なり、物語は、言葉の語り手が誰であるかは無関係である。
物語は、その物語が語られている最中の、時、場所、関係から独立しようとする。物語が語られる時、場所、関係から離れて、「物語の中」の時、場所、関係へと、物語の聞き手を導く。聞き手の「今、ここ」は物語の中に入り込み、聞き手のイメージは物語の中で生きる。
物語を語る者が自らを明らかにしたり、署名したりする場合があるが、リクエストのときと異なり、物語を語る者は物語に従属する。例えば、報告という形式の物語では、報告者の署名は、誰によって書かれたかを報告の一部とし、報告の書かれた視点や背景を明らかにする。
リクエストが、そのリクエストの内容が実行されるまで、話し手の意思の一部となっているのに対し、物語は語られたときに、話し手から聞き手へと引き渡される。リクエストの語り手は、言葉によって人を操作しようとするのに対し、物語の語り手は、物語を聞き手に捧げ、聞き手の自由に供する。
物語かリクエストかの区別は、使われる言葉によっては単純には判断できない。たとえば、広告やテレビのコマーシャルは、物語の形式を借りて、巧みにリクエストを送る。「この商品を買ってください」というあからさまなリクエストの言葉は用いないが、商品とは一見無関係な、幸せそうな歌や踊りが、その商品を購入すればこんな風に幸せになれますよ、とイメージさせて、購入をリクエストする。
2012/01/19/Thu同一性の感覚
ここ数日の航海誌を読み返し、どうも当初に書いていたときに比べ、私自身の感情に響くような内容になっていないのを感じる。腑に落ちない。
この航海誌の読み手は、まず、第一に私である。私が読み返してどう感じるかが、重要である。
今、言葉をリクエストと物語を対比させて考えているが、私の中で、なにかもっと別なこだわりのようなものがあり、それは、物語とリクエストの対比という形ではうまく表現できない。
それは、何か相反する、矛盾するようなものなのだが・・・。少し、言葉という領域にこだわり過ぎているのだろうか?
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私たちは、言葉を口にしたり、書いたりするときに、その言葉にされるものが同一であることを前提としている。言葉は多義的であるとしても、その言葉が文脈の中で一義的に用いられ、その一義的なものは、どこで言葉にされようとも、何度言葉にされようとも同じであることを前提としている。たとえば、他者の言うことを正しく理解すること、正しい翻訳をすること・・・なども、同一性を前提としている。しかしその一方では、すべては変化しているという考えがある。「ひとつとして同じものはない」という言葉は耳にするし、私自身も口にすることである。
そのような世界の変化と多様性の証明として、私は、自分の感覚では感じることのできない顕微鏡レベルの変化や、分子や電子の振動というものを持ち出す。しかし、そのような自分で感覚できない事柄は、もはや知識であり、概念であり、言葉によって語られている。言葉は、差異に満ちて変化し揺れている媒体から独立した、一定の不変な記号を基礎にしている。同一性を否定する思想内容が、同一性を基礎にした言葉によって説明されているのだ。
そのように小難しく考えずとも、私は同一性を日常感じ取っているのではないか。そう考えて、同一性の感覚というものを改めて感じようとしてみる。「今、ここ」で感じている感覚を味わうと、感覚はやはり「今、ここ」の限りのものだ。身体を通じて外からくる感覚は常に新しい。同一性の感覚は、私が感覚に意識を当てた後から生じるイメージから生じている。まず、イメージを私は作って、そのイメージから感覚を得たときに、同一性を感じている。
そうだ。イメージを形成する前に感じた、イメージを形成する材料となる、その時々の「今、ここ」に限定される感覚と、イメージから生じる感覚を区別したほうがよさそうである。イメージを形成する前の感覚を「一次感覚」と仮に呼び、イメージから生じる感覚を「二次感覚」と呼ぼう。そして、同一性は、二次感覚から受け取っている。
物が同一であるという感覚は、この二次感覚の中で感じている。同一性は私たちのイメージよって作られていると言ってもよいかもしれない。
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実は、冒頭の反省後、私の気がかりは、「矛盾」あるいは「自由」に関することであろうと思われ、そういったことに筆を進めようとした。ところが、書き終わってみると、「同一であるということの意味」について、ひとつの端緒のようなものを書いていた。
書き終わっての収穫は、これまで単に「感覚」と呼んでいたものを、イメージの前後によって区別するという、もう少し細かな追求ができたことだと思う。
2012/01/20/Fri同じ言葉
私たちは生活していると同じ言葉と思えるものに出会う。「また同じことを言っている」とつぶやくときに、そこで感じる同一性は、その言葉を聞いた者が創り出したイメージによって生じる。
その「同じ」話をする相手が、私に対して同じ話をしているつもりがないならば、つまり、私に示そうとするイメージに同一性を感じていないとしたら、語り手である相手はどのようにイメージを味わい、そしてそのイメージが語り手にとってどのように、意味深く働いているのかに想いを巡らせてみるとよいかもしれない。そのイメージを常に新鮮に感じる話し手と、またかと思う聞き手の私・・・。
同一のイメージは、果たして、同一なのだろうか? イメージから同一性を感じることで、実は、そのイメージが変化している。同じイメージを重ねて味わうことで、イメージに既視感が重なっていく。イメージが年齢を重ねていく。それは、よりそのイメージが鮮明になって私に身近になる場合もあれば、逆に、イメージの新鮮さがなくなり、「またか」という飽きた感情を抱いて、そのイメージから私は遠ざかろうとする場合もある。
同じことを語る人は、記憶に問題があるとされ、欠陥的な状態と思われるが、彼らには、常に新たなイメージを過去から引き出してくる能力があるのだと言えるかもしれない。同一性は、私が創り出したイメージによって生じており、私自身が作ったイメージによって、「またか」の感情が生じている。
2012/01/21/Sat言葉にされるもの
この航海誌のスタート地点を「言葉」から始めた。1ヶ月は言葉にこだわろうかとも思ったがその必要性はない。この航海誌を書くことで、私は自分自身の思考の訓練をしているわけではない。
言葉を考察することで、私が新たに得たものは、「それ」を言葉にするときには、@記号化とA時間軸に沿った直線的な構造化を行っていること、そして言葉から「それ」を取り出すときは、その反対の作用を行っているということだ。
このように言葉を特徴づけると、そこに一種の言葉の限界のようなものを感じ、これ以外の表現方法はないか? 言葉によって私の思考は限界づけられていないか? という疑問を持つ。私は世界のことを知りたい。そして、世界ではあらゆることが同時に進行しているのに、言葉を用いて表現しようとすれば、それを記号化し、直線状に並べていかなければならない・・・そのもどかしさ。
しかし、もどかしさを感じながらも、この記号化、構造化に、何か私たちの能力の本質的な特徴が表れているようにも思える。言葉の限界を補うために、図や絵、写真で表現すれば、私たちは「一見」したものを、一度に全体としてひとつの「それ」と捉えるが、それでは満足できない。それを詳細に、よく知ろうとする。それを部分の複雑な集合として見ようとする。すると、その部分をひとつひとつ順番にスポットライトを当てて観察し、さらにその部分と部分の関係にスポットライトを当てなければならない。それを順番に、時間軸にそってひとつひとつこなさなければならない。
この一時一事(いちじいちじ)のやり方は、まさに言葉における時間軸に沿った構造化の方法である。
2012/01/22/Sun感覚と思考
ある感覚が与えられ、その感覚を私たちは享受する。しかし、感覚は過ぎ去り消えて、また別な感覚が渡来する。もし、このように生まれては消える感覚に対してなんの執着もなければ、・・・それが生じることを喜ばず、消え去ることを惜しまなかったなら・・・思考は生まれなかったかもしれない。
しかし、私たちは、与えられた感覚を自分の手元に留めようと欲する。あるいは、ある感覚に耐えることができず、その感覚から逃れ去りたいと欲する。
いずれにせよ、与えられた感覚そのままに満足できなければ、新たに別な感覚を生み出さなければならない。そこに思考の働く余地が生まれる。
知りたい、理解したいという欲求は、最初のある感覚を端緒に、新たな感覚を創り出すことへと私たちを駆り立てる。与えられた感覚を極めようとする欲求に応じるには、その感覚から離れ、新たな感覚を創り出さなければならない。
与えられた感覚を「それ」と名付けるなら、私たちには「それ」をもっと知ろうという衝動が働き、「それは何なのか」という問いが生まれる。その問いを満足させるには、「それとはこれである」という新たな「これ」という感覚を生み出さなければならない。「それはそれである」では、私たちの知りたいという欲求は満足されない。
私たちは感覚を直接に生み出すことはできない。私たちはイメージや概念を作り、それを表現することで新たな感覚を得る。イメージや概念をより確実な感覚にするために、言葉として表出したり、環境に働きかけて作品を作る。意識的な行為もそのようなイメージや概念から生じる。
「それ」から「これ」を生み出す私たちの内なる力が、思考である。
2012/01/23/Mon感覚と私
感覚はたとえ、それが現実のものでなくても、すくなくともある形を思い浮かべれば、その形を感じ、さらにそれが現実でないという感覚を受ける。ここでは、感覚を身体生理学的な、視覚・聴覚・味覚・触覚といった通常のカテゴリーで客観的に考えない。素直に、感じるということの周辺を観察して言葉にしていきたい。
静かに素直に鋭敏に感覚を味わうと、始め、感覚はひとつである。世界はその感覚で充満しており、それ以外の余地はなく、ただ、その感覚のみがある。ほんの刹那の間をおいて、感覚が自分の外のものであること、与えられたものである、という直感がその感覚に付随する。感覚が外にある、与えられたものというその直感に触れると、感覚を受け取る私、感覚に向き合う私という新しい感覚が生じてくる。すなわち、外なる「感覚」と、それを感じる内なる「私」という分化が生じる。
概念上の論理的な「自己」は別にして、素直な観察の場では、「私」というものを感覚の前提にはできない。はっきりと感じられる「私」も感覚のひとつに過ぎない。その感覚以前に「自己」を探さなければならない。しかし、感覚以前には、また別な感覚があるだけである。感覚を味わうときには、はっきりと感じられる「私」は前提とされず、ただひとつのその感覚のみがある。
そして、刹那の間をおいて、その感覚が与えられたものであるという、どの感覚にも付随する感覚の属性によって、感覚を受け取る「私」を感覚する。私たちは後から、さまざまな感覚を集積して「自己」という概念を作り上げるが、「私」というものの最初の小さな種子とも言えるものは、すべての感覚の属性として生まれているような気がする。
もし、感覚がなければ、私は「私」を感じることも、論じることもできなかっただろう。
2012/01/24/Tue「同一」という感覚
素直に感覚に着目すると、感覚は絶えず変化し、流れていく。
感覚の変化を感じるのに二つの場合がある。ひとつは、私が受動的な態度でいるときに、突然と現れ、突然と消えていく感覚。それは、新鮮さや驚きという新たな感覚を私の内に残しながら、現れては消えていく。
もうひとつは、私がある感覚に注目し、その感覚に目を留めようとするとき。最初の感覚は消え去り、別な新しい感覚が生まれてくる。掴もうとすると、掴もうとした感覚は余韻を残しつつ手から逃げ去り、逃げ去ったところに新たな感覚が入り込む。
このように受動的な態度であっても能動的な態度であっても、感覚の変化を感じることができる。
こうした感覚の絶え間なく変化する属性に対して、その変化を感じるための定点たる、不変性、同一性と言った感覚もある。私たちは、絶えず変化する感覚の波間に浮かんでいるはずなのに、なぜ、世界を安定的なソリッドな存在として感じるのだろうか?
確かに論理的には、変化を論じるには不変性を前提にしなければならないし、多様性を論ずるには同一性の概念が暗黙的に前提とされる。しかし、そうした論理的な必要性といったものではなく、私たちは、世界に同じものが、永遠とは言えないまでも、ある期間は継続して存在しているという感覚があり、その感覚を前提にして、その存在をさらに永続させようとするか、変化させようとするか、あるいは破壊しようとする。
感覚における、この同一性というものを考えてみたい。
2012/01/25/Wed既視感と同一性
私が探ろうとする「同一性」の感覚を、私たちはどのように感じているだろうか?
私たちは、時折、この光景は以前見たことがあるという感覚を得る時があり、その感覚を既視感(デジャブ)と表現する。しかし、私が問題にしたい同一性の感覚は、この既視感ではない。既視感を得たときに私たちは、驚く。例えば、過去にはそのような状況は発生しておらず、そのような光景を見た記憶がないにも関わらず、見た感じがすることに対する驚きである。
驚きに彩られた既視感の手前に同一性の感覚がある。そして同一性に対する疑い、そんなはずはないという感覚も加えられて、既視感を感じる。
2012/01/26/Thu比較と直感
もっと直接的に、「これとそれは同じだ」とはっきりと明言する場合がある。昨日iPhoneを購入したが、このようなひとつの設計図から生産された工業製品を並べれば、同一に見える。どちらかに傷や汚れがついていなければ、二つの白色のiPhoneは右も左も「同じ」であり、どちらを買うかに迷うことはない。
しかし、しばらく使っていると、自分の購入したものが特に原因がなく故障し、初期不良という判断がされたとすれば、実は同じと思われたiPhoneの右と左が違うものであることを考えざるをえなくなる。もし、あのときに右のiPhoneを買わずに左のを買えばこんな苦労はしなかっただろう・・・云々。そして修理の手続きで、シリアル番号というはっきりとした相違点、そのiPhone固有の情報を記さなければならなくなる。
原画とそれをコピーした絵が並べてある。ふたつの絵を丹念に見比べ、もし違いが見つからなければ、そのふたつの絵は同じだと明言する。すると、同一性とは、そこに違いが見当たらなかったという、消極的な感覚なのだろうか? しかし、そもそも違いを探そうとするきっかけは、もっと、直感的に、「同じものがある」という感覚に端を発しており、違いがあるかどうか調べるのは、その感覚を確認するためである。
丹念に比べた場合に得る同一性の感覚は、どちらかというと違いが発見できなかったという経験から生まれる、一種の「宣言」であり、その宣言によって生じる感覚のようである。言葉を正確に使うならば、「違いを見つけることはできなかった」と報告すべきところ、「同じである」と報告し、その言葉が同一性の感覚を生み出すように思われる。
すると、おそらく違いはないだろうという予断をもって、違い探しを始めるきっかけには、もっと直感的に同一性の感覚を得たのではないだろうか。
2012/01/27/Fri同一性の感覚は「どこ」で感じるか
「似ている」という感覚も、同一性の感覚に似て、私たちが身近に感じる感覚である。双子用のベビーカーに並んで座っている双子を見れば、ほとんど「同じ」と感じるし、兄弟や親子を見て「似ている」「そっくりだ」という感覚を持つ。
この同一性と類似性の感覚は、視覚や聴覚、触覚などの身体の一部の器官と特別な関係がある感覚とは異なる。視覚上の感覚についても同一性や類似性を感じるし、聴覚についても、同じ音、似た音という感覚を持つ。そして、触覚も同様である。
そして、ときには、ある音楽を聞いて視覚的なイメージを思い浮かべたり、強い視覚上の感覚から、刺されるような皮膚感覚との類似性を感じたり、類似性ときには同一性は、身体の異なる器官を横断して感じられる感覚であるように思われる。
そのように考えると、そもそも、同一性の感覚を私たちはどこで感じているのかという疑問が生まれる。そして、それはとりもなおさず、感覚をどこに感じるかという手前の問題にもなる。
2012/01/28/Sat素人的判断と専門的判断
この問題の私たちの時代のアプローチとして、生理学的な知識に求めることが可能かもしれない。視覚であれば眼球、視神経、そして脳へと解決の糸口を求めていく。しかし、私はこうした方法は当面、採るつもりはない。私は、「知る」ということ「理解」することをもっと知りたい。世界には様々な専門分野があるが、それら専門分野の知見を疑いなく援用できるかどうか、そうした判断の基礎を築きたい。
仮に、私がそうした専門書を学ぶとしてもその内容を理解し、もっともなことが書かれていると思うかどうかは何を根拠とするのだろうか。単にその専門書を書いた人の肩書きに依存するのでないとしたら、「私が理解する」ということの意味はなんだろうか? 私はどのように理解して、なぜあるものは正しく、あるものは間違っていると判断するのだろうか?
あるいは肩書きによって専門書の記述を信頼するとしても、その肩書きを信頼する根拠は、自分自身の中に求めなければならない。
すべての専門分野の前提として、ふつうの一般的な体験を基盤にして、問題にアプローチしたい。
ふつうの一般的な・・・というのは、始めは、私の体験と言ってもいいが、それを他者に語れば、相手はこの私ではなく、相手自身の体験を吟味することで、両者が共通点に達するという、そういったアプローチである。この点、たとえば脳の解剖学的な知見を専門家に話されても、今の私には他人の頭を開ける機会も技術もない。
私がこのような一般的アプローチをたどるとしたら、私にとって、専門家や専門分野はどのような意義があるのか? 私自身も職業上はある専門分野に特化している。専門家や専門分野というものが、そうでない専門外の人と関係するときに、どういうあり方や関係性が、双方に求められるかという問題にも発展していくと思われる。
2012/01/29/Sun感覚そのものと概念化された感覚
感覚をどこに感じるか、という問いの立て方は当を得ているのだろうか? 感覚について、「感覚」という言葉を当ててそれを理解しようとすることは、逆に感覚から遠ざかっている。
「感覚」という言葉は、実際の感覚の持つあらゆる個別性や固有な味わいを捨象し、すべての感覚を共通化させた概念を打ち立て、その概念を指し示す言葉である。
そのように事後的に作り上げられた「感覚」という概念を使うことで、私は操作的な思考が可能になる。概念によって他の概念と区別したり、関係づけることが可能になる。感覚という概念は、感覚する「私」、そして、感覚の原因と考えられる「対象」とは区別される。感覚は、対象と私の中間にあって、対象と私をつなげる存在であるという理解ができるようになる。
しかし、そうした理解は、感覚そのものではなく、感覚という概念を感覚していることから生じるように思われる。概念化される前の感覚を味わおうとすると、いったん考えることを止めて、感覚を味わい。その記憶を頼りに再び思考に戻る必要がある。
2012/01/30/Mon感覚の遷移過程(1)
概念以前の感覚を、そのわずかな余韻を頼りに描写するなら、感覚の最初の立ち上がりは、対象と私さえが未分化な、スパークのような、ただそれのみの状態であるように思える。
その後、感覚は最終的には、例えば、赤い花というように、対象である花の属性であるかのように、私と離れたものとして感じられるようになる。
感覚がスパークしたときから、対象の属性に変じるまでの遷移の表現を試みる(※)。
(1)イメージ以前の感覚、あえて記号にすれば・・・「!」
感覚の立ち上がり、スパーク、自他未分化
(2)イメージ萌芽の感覚、あえて言葉にすれば・・・「なにか」
感覚の継続、感覚上での足踏み、立ち止まり、目にとまる、目に付く、ふとした感じ
(3)イメージから生じる感覚、あえて言葉にすれば・・・「これ、それ」
イメージ、概念の発生、名前はまだない、対象化と自己感覚
感情の発生、イメージへの感情の投影
(4)言語化されたイメージの属性となった感覚・・・「(名前、形容)」
名付け、別な媒体への翻訳、所有
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※私の表現は常に、「試み」であって、最終的な宣言にはなりえない。
2012/01/31/Tue感覚の遷移過程(2)
感覚の遷移過程で生じていること
この過程(プロセス)で生じていること。
(a) イメージや言葉が作られていく。
(b) イメージ、言葉、また、このプロセスそのものからさらなる感覚が発生していく。
(c) イメージから生じた感覚へ、様々な感覚が融合していく。※
(d) 多くの感覚が、対象の属性へと追いやられていく。
(e) 感覚は個別具体的なものから普遍抽象的なものへと変じていく。
上記の遷移の中で、感覚をイメージの側へ押しやっていく過程は、記号化が進む過程であろうか。イメージや概念ができあがっていく過程といってよいであろうか。
※(c)について。
「(中心的なもの)へ、(周辺的なもの)が融合している」。
最初のスパークのような感覚が中心的なものだろうか? ひとたびイメージができあがると、私の作ったイメージが支配的な力を持つようである。原初の感覚は薄く、やがて忘れられていく・・・